お名前:太田 信之(おおた のぶゆき)
職業:C&Gパートナーズ 代表
2023年4月創業。
<略歴>
大学卒業後、損害保険会社に入社。約8年間営業として中小企業から上場企業まで様々な顧客の保険手配、リスクマネジメントに従事。組合活動にも登用され、ザ・リッツ・カールトン日本支社社長を組合員向けセミナーに招聘するなど、当時から本質的な提供価値を求めていた。結婚を機に小学校教師に転職、8年間、“熱く涙もろい教師として”教育活動に励む。その後、保険代理店にて中小企業の財務改善、リスクマネジメント等経営支援に従事。2020年に中小企業診断士に登録、「お金で困らない会社づくり」、「経営者・従業員が楽しさや幸せを感じる会社づくり」を目指して、経営支援活動に従事。2023年4月に独立しC&Gパートナーズを開業、主に公的機関の経営相談窓口で経営支援業務に取り組む。究極のビジョンは、「我が子と教え子が幸せだと感じ社会をつくる!!」
上村:現在行われている活動、お仕事についてお聞かせいただけますか?
太田:基本的に平日は朝から夕方まで公的機関の経営相談室で、企業の方や創業希望者の経営相談を受けるが現在のメインの仕事ですね。後は電話での問い合わせへの対応、公的機関の中でのセミナーやビジネスコンテストのプレゼン資料のアドバイスや審査も行っています。
上村:現在はほぼ公的機関に通われてお仕事されていると思いますが、個人で受けている仕事もあるのでしょうか?
太田:個人の仕事もしています。色々な関係先から財務改善や組織活性化の仕事を請けています。また、その他の会社の経営支援も行っています。
上村:前職の会社という話もありましたが、現在は個人で独立されて活動されているとの事ですが、そこに至るまでお話を学生時代から遡って順にお聞かせいただけないでしょうか?
冷静に周りを見ていたガキ大将の小中学校時代
太田:わかりました。小学校の時はいわゆるガキ大将的といいますか、周囲を引っ張る方で。野球チームでキャプテンもやっていました。ただ今にして思えばわがままなで嫌な奴だったと思います(笑)
とにかく自分の思う方向に引っ張っていく。今日は野球やるぞ。サッカーやるぞとか、当時のメンバーと今集まっても「遊びは全部お前が決めていたな」みたい事を言われます。
とにかく面白かったらなんでもやる。人が傷つくとか傷つかないとか考慮していなくて、傷ついたらいいとも思ってなかったのですが、我が道を行くという感じでした。
ただ、今にして思えばそれで影で文句言われたり、嫌われたりもしていたと思いますね。自分が外されて知らない所で他の子達が遊んでいたとかもありました。
ただスタイルを変えずにそんな風に過ごしていました。小学校時代は前しか見ていなかったと思います。基本的に釣りと野球しかしていない。平日は野球で、土曜・日曜日は釣り。勉強はほぼやっていなかったですね。
上村:なるほど。小中学校は同じ区域だったのですか?
太田:一緒の区域ですね。大阪市内の下町のやんちゃな地域だったから、漫画の世界がここにあるという感じで賑やかではありましたね。
茶髪パーマの髪型をしたヤンキーやツッパリの女の子もいたりして、そういう時代でした。
わいわいやって楽しんでいましたが、一線を引いていましたね。みんなで楽しんでいるけど、心の中では気を許してなかった。だから本当の意味では溶け合ってなかったと思います。その後、皆は友達同士で近くの高校へ行きましたが、私はちょっと離れた高校へ行きました。
努力をする事を覚えたラグビー漬けだった高校時代
上村:なるほど。ちょっと別の高校へ行かれたと。高校時代はどうでしたか?
太田:中学までは野球をしていましたが、高校はどうしてもラグビーがしたかったんです。
昔から私も父親もラグビーが好きで、小学校の頃から野球をしながらもラグビー場で試合を見たり、テレビで見たりもしていました。野球に飽きていたのも要因でした。野球の強豪校だったPL学園に行きたいと思っていた時期もあったけれど、思ったより自分の能力も伸びていなかったので違う事をやろうとなりました。ラグビーは初心者なので、最初から強豪校は無理と思いラグビー部があってそこそこ強い公立高校へ行きました。
太田:自分が在籍していた高校はラグビーがそこそこ強くて、学力的にギリギリ行けるといった感じでた。といってもその高校も偏差値が64で、中学校三年生の10月の時点で偏差値が48の状態で遊んでいたので父親に「こんな状態でいけるわけが無いだろう。本当に行きたいならしっかり勉強しろ」と言われて、そこから勉強を頑張り始めました。周囲からも無理と言われ笑われて、学校の先生からも落ちるから受けさせないと言われたのですが、父親が先生に「迷惑はかけないので落ちてもいいから受けさせて欲しい」に言ってくれて受験しました。
上村:すごいですね。
太田:それで受験して奇跡的な合格を果たして、入学後にラグビー部に入りました。
そこまでは多分地元の人達とそう学力も変わらなかったと思います。そこから勉強を始めて伸び始めました。努力を初めてしたのがこの時でしたね。高校はラグビー漬けでした?高校はとにかくラグビー部が楽しくて、ラグビーだけのために学校に行っているような状態でした。中学校の時はやんちゃな地域でしたから一線を引いていましたが、高校になったら同じような人達と関わる事になって凄く楽しかったですね。
上村:なるほど。
太田:自分勝手な性格は直ってなかったですけどね(笑)
ラグビーだけではなくて、ラグビー部のメンバーがユニークな人が多くて楽しかったのもあります。私の実感ではありますが、高校からラグビーする人間って変わっているんですよ。ラグビーをするために来ているわけではなくて、色々やっていたけどラグビーをしてみようかと好奇心旺盛な人が多かった。真面目な学校だった割には、ラグビー部は先輩後輩問わず変な人が多かったですね。ラグビー部のメンバーと琵琶湖にキャンプに行った時も、1年目は電車でしたが、2年目はそれだけでは面白くないと8時間ほどかけて自転車で行ったりしていました。ユニークな感じが面白かったですね。
上村:その辺りの高校でのご経験などが、今の太田さんに影響を与えている所はありますか?
太田:その時期が大きく影響を与えていますね。私が高校に入った時は160センチ48kgで小学生みたいな体形でした。だから周りからすると当時のその高校を受験する事もラグビー部に入部する事も「アホちゃうか」といった感じだったと思います。
太田:でも身長も10cmぐらい伸びて、筋トレをガンガンやり、ぶつかり合いとかでも負けなかった。やはり鍛えて行けば強くなる。能力が伸びる。入学してからの3年間で体が全然違ったと思います。頑張ればなんでもできると思いましたね。
上村:人間関係のところも、そこからだんだん楽しくなっていたようですが、コミュニケーション面でも高校時代がターニングポイントだったんでしょうか?
太田:そうですね。何か安心できるというか、これが仲間だなみたいな。本当に価値観が合う友達ができたっていうのは大きかったんじゃないかと思います。
上村:やはりそうですよね。
太田:楽しい事は楽しいけれども、頑張るところは頑張るみたいな感じです。
中学の時は楽しい、面白いだけで、頑張らないといけない時に頑張らないから、それはこのままではダメだろうと思っていましたからね。価値観が合うというのは本当によかったんだと思います。
上村:なるほど。中学校の時からのお話を聞くと、ベースに空気を読むという事も現在に繋がっているんでしょうか。
太田:中学校の時の経験も大人になってから凄く役に立っていて、ちょっとやんちゃなやつらとも付き合っていたから、一見すると敬遠されるような人も普通だという認識があって、色々なタイプの人に対応ができるというのはあると思います。
上村:なるほど。それはかなり強みになりますよね。
太田:学校の先生やっていても、営業をやっていても色々な人に出会うと思います。中には柄が悪い人とも出会う事もあると思いますが、私の場合は何とも思わない所はありますね。
目標を見失った浪人時代と大学時代
上村:では大学はどのように選ばれたのでしょうか?
太田:人生をグラフで表すとここは凄く下に落ちていた時期ですね。
上村:落ちるんですか?
太田:高校三年生の時、ラグビーで最後の大会の大阪予選でベスト四まで行く予定だったのに二回戦で負けてしまったんですよ。ベスト四まで行ったら花園のラグビー場で試合が出来るのでそれが目標だったんです。それで引退というのがプランだったけれど、早々と二回戦で負けて腑抜けてしまった。
上村:なるほど。
太田:勉強もする気が無くなって、何にもやる気ないみたいな感じになって、学校へ行く前に公園で寝てから学校に行ったり、放課後も友達とマクドナルドに行ったりフラフラしていましたね。目標がなぜ持ってなくなったかっていうと、東京の明治大学に行きたかったんですよ。
上村:ラグビーが強い大学ですよね。
太田:そうそう。明治大学のラグビー部に入るか、明治大学の学生としてラグビー部を応援するか。本音を言うとラグビー部に入りたかったけれど。でも東京に行かせるだけのお金がないって言われたんです。
太田:明治大学以外の大学に行く意味がないみたいな感じになってしまっていて、しんどい勉強をやるだけのモチベーションが全くなかったですね。親もそれを見ていて「遊んでばっかりいるな」と思っていたと思います。
受験は関西学院大学と京都産業大学を受験して、記念受験で明治大学だけは受けたいと言って受験代は出してもらったけど交通費はバイトをして自分で出したのを覚えています。
でも見事に全滅して、浪人することになったけど、親から予備校代を出せないと言われたんですよ。それでどうしようかなと思って、高校三年生の授業が終わった2月の途中から3月の1か月間ぐらいでバイトをして40万円ぐらい貯めて、それを親に渡して予備校に行く事になった感じでした。その時のモチベーションは行きたい大学がないから、潰しがきくようにとにかく偏差値の高い学校に行こうといった感じでしたね。
高校の友達など周囲に同志社は行ければいい。最低限、関西学院大学には行くと言っていて触れ回ったんですよ。それで自分にプレッシャーをかけて、予備校時代、ほぼほぼ勉強してない状態から勉強して一浪で関西学院大学に入学しました。
上村:その時はもう明治大学に行きたいという気持ちはなかったんですか?
太田:諦めましたね。もし明治大学に行こうと思ったらどうすればよいと考えてみると、学費も生活費も自分で稼ぐとなると行く意味が無いなと。東京に行ってひたすらバイトをして学費と家賃を稼ぐ生活で終わり、楽しむ時間が無いと思ったからそこはもう諦めました。
上村:なるほど。
太田:でもそれは本当に悔しかった。明治大学に入りたかったというのはずっとありました。
上村:そして私と同じ関西学院大学に入学されたと。時期は違いますけど。
太田:そうそう。でも別に関西学院大学に入りたいと思って入ったわけでは無いから、入った所で何もないなと。そんな理由で関西学院大学を選んだので、他の人のように関西学院大学に憧れて入ったというわけでも無く、私の場合は何の楽しみも持たずに入学した感じでした。
上村:太田さんは何学部でしたか?
太田:商学部でした。
上村:人生グラフでいったら大学時代は結構下がっていました?
太田:1年の2~3か月は凹みました。関西学院大学はお金持ちの学生も多いじゃないですか。車の教習所に通っていて免許とったらどんな車に乗るとか話しているわけですよ。それと比べて自分は金も無いし、車どころか学費まで自分で出さないといけないし、ふてくされて家で壁を殴ったりして親を困らせていましたね。
もうしょうがないので、元々やるつもりはなかったけどラグビーをやろうかとなりまして、ラグビーサークルに入りました。その時期は試合中に先輩に文句を言ったりするなど尖っていましたが、先輩が非常に優しい方で可愛がってもらってチームの事が好きになりました。
1年生の夏休みぐらいに彼女が出来て、ラグビーも試合に出られるようになったし、
バイトも楽しいし学生生活が楽しく回りだした感じです。
上村:なるほど。
太田:大学の学部には友達がいなくて、大学生活はラグビーサークルの友達しかいませんでした。ひたすらラグビーをやって、バイトをやってという感じでした。
忙しくて大変だったけど楽しかった新社会人時代
上村:社会人にはどういう風な流れでなられましたか?
太田:三歳年上の兄が銀行員になっていたのでそれで金融業界に興味を持ちました。就職活動で色々セミナーに参加していたのですが、その頃のメーカーは自社の商品の宣伝ばかりしていて「我が社はこうです」ではなく「我が社の商品はこうなんです」というのに違和感があって、それに対して金融機関は形のないものを売るから自分を売らないといけない。そういう説明会が多かったので、自分はこっちの方だ、自分を売りたいとなって銀行を中心に就職活動をしました。銀行を受ける人は他の人もそうだったと思いますが、生保、損保も受けました。
上村:なるほど。
太田:当時、山一証券が潰れたりして証券の評判が悪かったから証券系の会社はセミナーに1回行ったぐらいで受けなかったですね。証券会社はノルマがきついとか当時印象はあまり良くなかったですね。
太田:銀行、生保、損保を中心に受けましたがほぼ全滅しまして、業界中堅の保険会社や地方銀行あたりの内定しかもらえなくて、行きたくないなとなり、留年しました。
単位は揃っていたので、自動的に卒業してしまうので4年生の半年間を休学して、5年目に就職活動して大手の損害保険会社に内定を貰いました。
1年浪人、1年留年だったので2年遅れですね。
上村:社会人になられて、働きだしてから今に繋がるまでのお話を聞かせていただけないでしょうか?
太田:いろいろあるなぁ(笑)まず損保時代ですね。大阪の難波で営業していて、7時に出社して23時~0時まで働くという感じでしたね。配属初日から終電で帰っていましたね。
東京での入社研修が1か月あって、ゴールデンウィーク明けの配属初日でした。
太田:当時の難波は仕事も大変で社内では評判が悪かったですね。ずっと7時出社の23時~0時退社で、そこから飲み会などもあったので、めっちゃ仕事して、めっちゃ飲んでアホみたいに金を使っていました。貰うお金を全部遊びに使っていた感じで、ほとんど家に帰っていなかったですね。
先輩たちも同じで、毎日色んな先輩と相手が変わって飲んでいる感じでした。でも先輩たちの事が好きで、仕事でも認められたいという事で頑張っていました。一軍のレギュラーになりたいといった感じですね。
昼間は頑張って仕事をして、夜は先輩たちと飲みに行くという生活を続けていました。
給料は凄く上がっていって、3年目に年収は700万ぐらいありましたね。5年目には1,000万近くありました。
上村:おお。すごいですね。
太田:でも全部遊びでなくなっていましたけど(笑)1日あたりの使う額は全然違って安いものでしたけれどね。稼いだ金を使うという生活をほぼやっていました。
太田:入社4年目ぐらいにプライベートでも色々と辛い事があってそれまで上の方だったチャートが、真っ逆さまに落ちてどん底になったんです。4年目とか死にそうなっていたかな?3年目ぐらいまでもうイケイケ社員で、元気でムードを作って成績も上げてみたいな、割といい社員だったと思います。でもこの時期は1年ぐらい何もやる気が起こらなかったか
太田:その後に今の嫁さんと出会ったりして昇ってきた感じかな。あとその間、社会人になってからもクラブチームに在籍してラグビーもやっていて、それで自分の精神が持っていた感じかな。仕事がしんどい中で土日にラグビーをやっていたので、大変でしたけどね。
上村:大変ですよね。5年目になっても毎日23時~0時退社というのは変わらなかったんですか?
太田:少しはマシになっていて、早くて21時でしたね。
筋トレするために20時に会社を出ようと思っても、もう20時には退社できずに21時ぐらいに退社して、筋トレして終電に帰るといった感じで、なかなか体を酷使していましたね。
その頃に今の嫁と知り合って結婚しました。
少しずつ違和感を覚え始めた保険会社後半時代と教師への転職
上村:そこからお仕事に変化はありましたか?
太田:全国転勤で希望も出していたので名古屋か東京に転勤と思っていましたが、難波から淀屋橋に転勤になりました。大きい拠点が東京、名古屋、大阪で大企業を担当していました。
東京か名古屋の大企業を担当する部署に転勤の希望を出していたのに大阪の企業営業になってしまった。その時点で結婚が決まっていたので配慮してくれたんだと思う。
そこでこの会社の文化みたいなのが、ちょっとわかってしまったといいますか、やはり財閥系の企業、金融機関はずっと法律で国から守られてきた業界なんですよ。だから顧客目線が全然ないんですよ。そんな人達が社内でも多いし、数字を取り合ったり、鬱陶しいとなって、顧客目線の顧客目線の良い仕事をしたいなという風に思うようになりました。
保険を他社から、例えば東京海上からひっくり返して取って、こちらが取ってありがとうございます!と言っても相手は全然笑っていないとかね。
ただ単に安いからそっちにやっただけみたいな。どっかで入らないとダメだから、どこで入るかぐらいで、ありがとうみたいな感じではないんですよ。
だから空しくなってきて、もういいかなって思うようになりました。
太田:嫁も公務員の仕事を続けるというので、2人で稼ぐなら今の会社にいるぐらいの給料は稼げるという事になり退職して、大阪で働く仕事で小学校の先生を選びました。
上村:先生の所のお話の前に聞きたかったんですが、会社に入ってすぐも先輩が凄く素敵だという話がある一方、財閥系の文化的に顧客目線がないとか、そういう周りに対するギャップ、はてなマークが出てきたとの事ですが、新卒時代の先輩も太田さんの仕事に対する考えは合わなかったんでしょうか?
太田:いいえ、そこのメンバーは極めて優秀でまともでした。社内で数少ない良い人達でした。たまたまこの現場に集まっていただけで、人も良いし仕事もできるから、役員になるなどあちこちで偉くなっています。
上村:恵まれていたんですね。
太田:でもその人達が文化そのものかというとそうではない。やはり会社の中では異端と言えるぐらい良い人達でした。
上村:なるほど。ありがとうございます。もう一つお聞きしたかったのですが、そこからまさか、まさかで小学校の先生になったという所で、そこから教員の免許を取ったという事ですよね?
太田:そうです。通信教育で取りました。
上村:ではまず、なぜ小学校先生を選ばれたのかという所を教えていただけますか?
太田:高校のラグビー部の先生に救って貰ったような所があって、その先生に感謝しているから自分も教員の免許を取るのもいいかなと大学に入った時に考えていたのが一つで、もう一つ、嫁さんが学校で栄養士の先生として働いていて、学校は大変大変と言うわけですよ。
そんなに大変だったらどうせ大阪で仕事するんだし、俺が教育界を救ってやろうぐらいの感じで(笑)
上村:かっこいい(笑)
太田:そんなちょっと偉そうな感じ。でも行ってみたらそんな事なくて苦労しましたけどね。最初はそんな感じかな。金八先生は好きじゃなかったけど、スクールウォーズとか好きだったしね。
上村:言葉ではなく体が引っ張っていくタイプ?
太田:そうそう。サラリーマン時代に裏表が凄かったり、最後の方嫌な感じだと思っていたから、もっとドストレートに真っ正直に仕事がしたいと思っていました。
思いをぶつけるような、未来作っていくような仕事したいなという思いがあったから学校の先生は選んでよかった。正解だったと思います。
みんなの応援団長
上村:以前、聞かせていただいた小学校時代のご自身のキャッチフレーズ「みんなの応援団長」という言葉がすごく印象的で好きだったんですけど、それは先生時代からご自身の中でスタンスやキャッチフレーズみたいな教師としてのあり方はあったんでしょうか?
太田:とにかく子どもを尊重するっていう事ですね。主役は子どもっていう事ですね。
一方的な決めつけはしない。話をちゃんと聞く。子供の将来を考えた教育をする。今も大事だけど、これって子供の将来の繋がるのか?という目線はいつも持っていました。
こういう事を伝えないといけないなとか、怒る時も将来こんな事をずっとしていたらダメだよという目線で怒るという事をしていました。
時間を守りなさいとか宿題がどうとかではなくて、宿題をちゃんとできない自分のその精神面の弱さを何とかしなさいという感じです。
太田:常に子どもの将来を見ていたとは思います。
上村:応援団長というのは当時から自分の中で言っていたんでしょうか?
太田:言っていなかったですね。あとから気持ちを整理したら、人を応援する、サポートする事が面白んだなと。当時は言っていなかったですね。
上村:そこから学校の先生は何年ぐらいされたんですか?
太田:8年ですね。
社会とのギャップを感じた教師後半時代
上村:8年続けられて、仕事を変えようと思われたきっかけは何でしょうか?
太田:まず一つはサラリーマン時代の人達と会うと会話が合わなくなった。会話が分からなくなった。世の中のことがわからなくなったという事と、自分の強みは社会を知って教師になったという、そういう自惚れ半分の強みがあったわけですよ。
だから自分の言うことに自信もあったし、魂も込められていたんですよ。
ところが6年目、7年目あたりになってくると自分が世間とずれ出したな、という風に思いだしてきて、自信を持って社会はこうだと言えなくなってきた。
社会を知っているという強みを自分の中で自信を持てなくなってきて、言葉に魂が乗らなくなった。言霊というか言葉を気持ちに載せていたのにこれが乗らなくなってきた。
上滑りしているというか、口だけで言っているけど自分自身がたいした事が無いよなと思いだしてきた。
太田:卒業した子達が遊びに来てくれると成長しているのを感じて、自分は放っておかれていると感じて俺もこの子達の先生でいられなくなるな、と思ってもっと鍛えて成長しないといけないと思ったから楽しいが学校から出た感じですね。
上村:なるほど。
太田:やはり言葉に魂が乗らなくなったら仕事も楽しくなくなってくる。自信がなくなってくる。キャリアを積んで自信をつけていくはずなのに、逆に自信を失っていくっていう感じだった。自分の言っていること正しいんかな?みたいな。
上村:魂が乗らなくなったというのは、社会人経験がそれまで数年あって、そこの数年というのか減る事が無いものだと思うのですが、時が経って教師を8年間していると、その乗らなくなったのは内面の変化でしょうか?社会人としての実績、経験は変わらないのでその言葉というのは、そのまま魂に乗っていると思ったんですが。
太田:ブランクになるんですよね。社会から離れてこれだけ時間経ってしまったら。例えば、当時はリーマンショックの最中だけど、世間で大変なことになっているのに学校の中は安全でリーマンショックが何かわからないとかね。世界はどうなっているんだ。銀座から灯が消えたみたいなね。
上村:なるほど。そういう話ですか。
再びビジネスの世界に飛び出して実感した別の現実と中小企業診断士取得の動機
上村:そうやって世間と成長が止まっている自分を感じて、次はどういう業界に行かれたんですか?
太田:次は保険の経験を活かして、当時の保険会社時代の人脈で保険代理店に入りました。要は自動車メーカーの本社で働いていたのが、販売会社に来たみたいな感じでしょうか。
ディーラーに来たみたいな感じ。そういう作る方から売る方へ、メーカーから販売会社に来た感じです。
上村:そこに行かれたのは。どういった動機でしょうか?
太田:そこに行ったのは、元々の保険会社時代の人脈を使ったという事と、保険の代理店は色々ありますが、まともな仕事しているなっていう風に思っていたからですね。代理店というのは色々あるんですが、そこは保険会社の社員が作った代理店だったのでかなり力もあると思ったし、価値観が合うかなと思っていきました?
上村:その最初財閥系の所を辞められた時の顧客目線が無いなという所は転職先の代理店の所で大丈夫でしたか?
太田:結局最終的に辞める理由はそこになりました。やっぱりそうかと。辞める時の代理店は、大手財閥系出身の人達が集まって主導権も握っている会社だから、自分としてはむしろ都合が良かった。入った時から扱いが良かったんです。
上村:出身でしたからね。確かに。
太田:そうです。でも経営者とも普通に喋れる間柄だから、色々喋ってもう打ち出す戦略とか見たんですが、どう考えてもこれはミニ保険会社みたいな感じで。効率よく稼ぐかといった感じでお客さんの事を考えようとしてないなと感じる所がありました。
自分はちょうど中小企業診断士になったりとかして、もっと顧客サービスを上げていこう、中小企業に対するサービスを上げていきたいと言っているのに、保険の話ばかりさせられて、自分はもっとこういうことができるよと言っているのに、いやいや大口の保険を守る仕事をしてくれと言われるけど、他の代理店にもできる仕事じゃなくて、自分にしかできない仕事があるだろうと。自分をもっと有効に使ってくれたら、差別化になるから他の代理店に負けないと言っているのにそれよりも保険ど真ん中の仕事がドンドン来るんですよ。
たしかにそれも簡単な仕事では無いのだけれど、でもそれは他の中小企業診断士の資格を持ってない人でも鍛えたら出来るようになる仕事で、これを絶対自分にしかできない仕事だからこれをやらせてほしいと言っても、目先の保険収入を一生懸命取るような戦略だったから、もう自分はいい、もっと顧客にダイレクトに中小企業に役に立つ仕事がしたいと言って退職した感じですね。
上村:中小企業診断士の資格を取ろうと思われた動機は何だったんでしょうか?
太田:保険マンとしての差別化ですね。
上村:なるほど。その時は保険代理店の営業マンとして、差別化してお客様への価値や、ご自身のキャリアアップみたいな所で考えられていたと。
太田:そうそう。やはり大企業で働いていた時と比べて名刺に力がないんですよ。大手保険会社時代は名刺出したらなんと何となく皆わかるじゃないですか?でも保険代理店の名刺出してもてどこですか?という感じでした。もう名刺を出すのが嫌になるぐらい。
自分にも箔をつけないといけないし、知識も付けないといけないと思ってネットで社労士がいいのかな?税理士は時間かかるから無理だなとか色々調べていた時に、中小企業診断士について初めて知りました。
太田:資格学校のTACの説明会に行きましたが、時間的に通うのはしんどくて独学でやった感じです。
上村:独学だったんですね。前職をやめられてから今に至るという感じですか?
太田:そうです。やはり目先の仕事をするより、中小企業診断士の仕事の方が楽しいですね。
今の仕事の楽しさと自身の未来について~自身の成長と組織開発への想い~
上村:今の仕事の楽しさはどのような所でしょうか?
太田:先生の仕事と似ている所があって、仕事でやり取りしていると相手から「ありがとう」と言って貰えるんですよね。
それだけ役に立てているという事を実感できる。保険の仕事で相手から「ありがとう」と言って貰えませんからね。だから価値を提供出来て、役に立って「ありがとう」と言ってもらえるのが物凄く嬉しく思います。実際にお手伝いした会社が設立して法人として歩んでいくようなストーリーを見ていると面白いです。
上村:今後の5年10年先、未来のビジョンはどのように考えられているのでしょうか?
太田:そこは未定です。今は公的機関に採用いただいて頂いて、お世話になっている方も近くにいるので、すぐにそこから出るという選択肢は無いと考えています。機関の中でもお世話になっている皆さんはいろんな役割を担われていて、その辺りも100分の1ぐらいしか自分は携わってない状態です。
太田:今の組織の持っているポテンシャルに対して関わりたいし、学べる事がたくさんあると考えています。面白いですよ。もちろんこちらの知識が足りずに、お役に立てなくても悔しい思いをする事もありますし、でも日々成長しているのを実感できます。それで自分が成長していけるのなら、中小企業診断士としてやっていく方向性は合っています。理想は組織の活性化や組織開発のような関わり方をしていきたいと思っているのですが、中々そのような所までは行けないですよね。
上村:太田さんも組織開発といった分野に関わりたいという思いがあるのですか?
太田:関わりたいですね。やはり自分が特化するとしたら組織と財務、要は人とお金。この2つと考えています。今の公的機関の仕事をやりながらも、組織開発について学んだり、外部の財務に関する講座で学んだりしています。でもどちらが楽しいかというと組織開発ですね。
上村:そうですね。変わっていく姿がダイナミックというのでしょうか。
大事にしている想い~皆が楽しい世の中に~
上村:ご自身のミッション・ビジョン・バリューのようなものはありますか?
太田:与えられた命というのがまずあって、次に楽しく自由に。日本を元気にするといった思いがあります。自分の子供や教え子たちが世に出てくる時に楽しい世の中にしたい。それを実現するにはやはり組織ではないのかと。組織が楽しい、チームが楽しいがたくさん出来れば社会全体が楽しくなるんじゃないかなという思いがあります。
あと個人としては自分が挑戦して努力して成長するという事を大事にしています。
太田:いつも挑戦、努力、成長という思いが自分の中にあって、楽しく元気に自由にという思いも持っています。日本の元気に貢献したいというのが自分のやりたい事です。
上村:日本の元気に貢献といえば、やっぱり中小企業さんですよね。企業の多くは中小企業ですから。
太田:そうですね。でも中小企業は組織開発が全然出来ていない。
大企業も出来ていない所もあるんでしょうけど、でも大企業は以前にあったセミナーでも言いましたが、外発的動機付けで一時的に満足するといいますか、それである程度幸せを得られる。
上村:それはあると思いますね。
上村:もちろん大企業だからこそ、社会的価値、影響力がありますし、そこにやりがいを感じている方もあると思います。確かにおっしゃる通り外発的動機付けで満足してしまう所はあるのではないかと思いましたね。
太田:大企業というのは、それ自体が社会みたいなものなので、その中で上に行ければ、それである程度、人生が面白いと感じる方が多いのではないかと思います。
上村:確かにそのような気がします。
太田:でも中小企業の場合は、自分達もそうですが周りのフィールドが狭いので、やはり外に対して良い仕事をしないと面白くないといいますか、満足度が低くなってしまう所があると思います。
上村:その通りだと思います。
上村:太田さんが今後、中小企業診断士としてご活躍されていって、晩年はどのように周囲に思われ、どんな中小企業診断士になっていきたいかお聞かせいただけますか?
太田:中小企業を元気にしながら、それを自分も楽しんでいた。そのように思われたいですね。こちらも楽しい。中小企業もお金の面でも安定して、良い組織になり人間関係が良くて会社に来るのが楽しいというような会社を作るサポートができて皆が笑顔になるような感じですね。
上村:なるほど。組織とお金の部分で関わっていくという事ですね。
太田:そうですね。まずそれだと思います。組織とお金、その両方は欠けたら絶対にダメですからね。他にも欠けたらダメなものはいっぱいあると思いますが、人が不幸だったダメですし、お金が無くなったら終わりですし。
過去と現在との繋がり、人との繋がり
上村:小学校の時にはリーダー的なポジションをやりつつ、空気を読みながら過ごして、大学時代は楽しかったけど、キャリアでは挫折も経験されて、社会人として三つの組織で色々とご経験されて来ましたが、これまでの経験を振り返ってみて今にどうか関わっているか改めてお聞かせいただけますか?
太田:これまで色々な事を一生懸命やってきました。気を抜ける事がなかったからしんどかったかもしれないけれど、いつも楽しんでいて良い人生だったと思います。
上村:なるほど。時間的には忙しくてしんどくても、楽しかったらそれが活力になるという感じでしょうか?
太田:そうですね。今にして思えば、仕事に少し慣れてきて楽が出来るようになってきたら、飽きてとか、ちょっと違うみたいな事を思って退職していたんですよね。
教師を辞めた後、物凄く成長しているので、それはそれでよかったと思っています。
中小企業診断士の資格を取った事も、いま公的機関で仕事をさせていただいているのも凄く良かったと思っています。最初はどれもしんどかったですけどね。
上村:なるほど。もう一つ質問がありまして、学生時代から先輩に恵まれたというお話がありました。そして中小企業診断士になって色んな人との繋がりが出来たと思いますが、太田さんと人との関係というのはどういう風に捉えておられますか?
太田:基本的に人との関係は大事だと考えています。人というのは色々あって、面倒くさい事もあります。ただ、中小企業診断士の繋がりは面白いですね。
特に前向きな人とはずっと関わっていきたいなとは考えています。
上村:人との関係は応援するという関わりもあると思いますが、横の繋がりはどうなんでしょうか?
太田:横の繋がりはリスペクトできる関係でしょうか。お互い価値を認める、パートナーみたいな感じです。
上村:関係から価値も生まれますしね。
若い世代に向けたメッセージ~人生は長い。世界は広い。~
若い世代に向けたメッセージ~人生は長い。世界は広い。~
上村:教師もされていた太田さんですが、今の若い世代、社会人になりたての10代、20代に向けて何かメッセージを頂けますか?
太田;人生は長いという事ですね。いま自分は47歳ですが、人生長くて色々あるしで、嫌な事もあるけど良い事も多いし、頑張れば頑張っただけのものが返ってくると思うので、長い人生だから前を向いて頑張ろうといった感じですね。
やはり自分の心の持ち方が大事だから、楽しくしようと思ったら楽しくなると思います。人生は長いから今がしんどくてもそれがずっと続くという事は無いから、前向きに頑張ろう。きっと良い事はあると言いたいですね。
上村:太田さんは一番しんどかった時期、どのように考えておられたのでしょうか?
太田:一番しんどかった時期は、社会人4年目の公私ともしんどかった時期ですかね。あの時は本当に絶望的な感じでした。
その頃に一人旅で中国に行って現地の中国人しかいないバスツアーに参加しまして、四川まで飛行機で行って、そこから世界遺産の九寨溝に行きました。
その時に自分はいま地図上のこんな所にいるのかと思い、またバスツアーで山道を行くわけですが窓側で何気なく外を見ていたら、日本には無いような上の方が見えないぐらい高い山が見えて「なんか世界は広いな」と思ったわけです。自分の悩みなんて小さいものだと感じて、吹っ切れた感じですね
上村:なるほど。
太田:しんどかった時は何かやる事ですね。
上村:確かにそうですね。日常から離れてみると、色々と見えてくる所もありますよね。何がきっかけになるかわからない。
太田 :そうですね。止まると良くないと思います。塞ぎ込むとぽっかり感が出たり、時間があるとか思ってしまって行動できなくなってしまうと思います。だからしんどい時などは時間が足りないぐらい楽しい事をすればいいのではないかと思います。
上村:そうですね。
太田:頑張る事を辞めて楽しいことばかりやるとかね。それもアリなのではないかと思います。
上村:アリかもしれないですね。私も一番しんどかった時、一人旅してそこで楽しい事ばかりしたら復活して人生の選択肢が広がったから、まさにそうだなと思いました。
太田:高校の時にも彼女に振られてヘロヘロになった事もあったんですが、その後ラグビーの試合で際どい試合で勝って大喜びして、生きていてよかったーといった感じになりましたからね。
上村:良いですね。幸せは本当に動き出したら自分で作り出せると思いますよね。
太田:どうしてもそこしか見えないから絶望してしまうけれど、いま振り返ったら全部大したことなかったなと思います。
上村:本日は色々と聞かせていただきましてありがとうございました。
インタビューを通して
太田さんのインタビューから何度となく「楽しい」「楽しむ」という言葉が出てきました。中小企業診断士としてご一緒させていただく機会も多いですが、常に楽しんで物事に捉えられている雰囲気を感じます。太田さんの人生を聞かせてもらい、多くの人との出会いとそこからのご縁で人生が広がっている感覚を受けました。それも常に楽しみながら目の前のコトとヒトに向き合ってこられたからこそのものなのではないかと感じました。
そして、ヤンチャな中学校、スポーツに没頭した高校と大学、そして保険業界、小学校教師、中小企業診断士として企業支援、様々な環境で自分の強みや特徴を活かし、想いを発信、実現しながらも周りとの調和も大切にされている方という印象を受けました。
まるでラグビーのように、壁にぶつかっても何度も何度も挑戦(トライ)する。そしてそのためには仲間と協力し合いながら前に進んでいく。ラグビーの有名な言葉で「ONE FOR ALL,ALL FOR ONE」というのがありますが、仲間のために行動を起こすと、仲間がまた助けてくれる。そんな精神を改めて教えていただけました。
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